〔モンドヴィノ〕いくつかの考察

今だかつて作られたことがなく、ワイン愛好家なら大うけする喜劇映画としての枠を越えて、〔モンドヴィノ〕=ワイン生産業の世界に大歓迎されていることがある。

まずこの映画の中に映し出されるのは、ワインの多国籍企業〔しばしばアメリカ人主導〕と国際情報誌〔これもまたアメリカ人が握っている〕の密議と共謀だ。

最終的には味覚の標準化を伴うグローバル化の嵐は、新たに台頭して告発されている。

しかし、それも片面だけの映し絵ではないのか?なぜならグローバル化の核心はここにははっきりと描かれていないからだ。私たちはただ味覚の標準化に対して日々対処していかなければならいのだ。フランスのワインはもはや世界に対してお手本を示すことも必要なくなった。最近の消費者たちは簡単に、生産物を作り上げる海外の競争相手から届くワインに飛びついている。しかし、反対に小さな生産者であっても、かつてないほど全世界に向けて販売の足場が築けるようになった。

それも本物志向の世界に向けてだ。昔から存在する地域のワイン生産者には耳寄りの話だ。〔トップにブルゴーニュがくる〕が、同時にヨーロッパも含む新しい産地にとってもいい話だ。北部に続いて、今やイタリア南部もグローバル化の恩恵を受けているし、スペインやラングドックも、、、。アメリカでのドイツワインの新たな成功はどうだろうか?

このように多様な成功の下、これらすべて万国共通の味わいに規格化されてしまったワインだと、誰も真剣にクレームすることすらできなくなっている。 大成功をすでに味わっている小規模生産者に関して、グローバル化の効果について把握するのは面白いだろう。時に行きすぎを見ることもできる。〔スノビズム・高級志向や桁外れの価格〕もあるだろう。または肯定的な効果、たとえば〔卓越した味わいと妥当な価格〕、という結果もある。

第2の弱点がこの映画の中に見られる。それは反アメリカ主義を正当化していることだ。これは哀れむべきことであり、間違ってもいる見解だ。なぜなら、アメリカの生産者は地元の生産者としてアメリカ国内での消費に多大な利益をもたらすことができるからだ。

他には特に小規模生産者の間では次のように考えられている。「物事すべていい面と悪い面がある。でも私たちはいい面の方に立っているんだ。本物の側に立っている。私たちは世の中の流れに抵抗しているし、もちろん、あらゆる影響下において迫害を受けているが、それでも私たちは正しい方向にいるんだ。」と。自己批判を避けるとても便利な反応だ。自責の念に駆られながらも一種の自己満足といえようか、それに近いものだ。

最後にこの映画がグローバル化についての討論をきっかけとして、人間の弱さと偽善を描いているのがわかる。いいドキュメンタリー映画制作者として、ブドウ畑からの産物に対する真のやさしさを確かに持ちながら、作者は表現を膨らませていく。うぬぼれやむなしさを強調して、多くの者が本来の道から逸れていくことを描く。

こうなると、映画のシーンはしばしば残酷になる。そこには近寄りがたい威信と、これ見よがしの富、生産物の味よりもビジネスの味がしてくるものだ。プレスや財界と結びついている世界に、日常の丹念な畑仕事はいったいどこにあるというのか?

マーケティングや買取しか話題にならないシーンは、ワインによって運ばれてくる親密さや生きる喜びというものからはかけ離れているようだ。

このような人たちには果たして生産物に対する愛情が少しもないのか、信じ難いことでもある?!